府民になりたい県民の徒然だいあろぐ

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清原よ、なぜクスリに手を染め、逮捕されるのか…。悲しさから、彼の凄さを今、あえて伝える

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疑惑はあったとはいえ、未だに動揺しまくってます…

なんたって、小さい頃、それも野球を見はじめた頃のスターですから。

 

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僕が野球を見はじめた頃、野球選手といえばライオンズブルーに身をまとった背番号3だった感じすらするくらいですから。(もしくは海の向こうで活躍していた、野茂英雄だったかもしれません)

 

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なぜ、クスリに手を染めてしまったのか。

ただただ、残念でなりません。

 

覚せい剤で逮捕されてしまった話題で持ち切りですが、ここでは清原和博という男がどれだけ凄かったのか、振り返ってみたいと思います。

 

「番長」の渾名とは裏腹なチームプレーに徹していた西武時代

巨人移籍後「番長」という渾名が付けられ、豪快なホームランが求められていた清原。

 

だんじりの街、岸和田出身ということもあってその打撃だけでなく、私生活でも「豪快」な印象は一層増幅して表現されたことでしょう。

 

 

彼自身、その周囲からの印象という目には見えない重圧と戦いつつ、「豪快」なキャラクターを演じていたところがあったのかもしれません。

 

「番長」と呼ばれた清原。ですが、西武時代のスタッツを紐解くと彼がいかに自己犠牲に徹し、勝利のためにプレーしていたかということが見て取れます。

 

と、ここで西武時代の成績を見てみましょう

 

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※所属球団が、最終所属のオリックスで表示されています

 

無冠の帝王

 

甲子園の成績からすると、こんなもんか

 

など言われたりもしていましたが、特筆すべき点は

 

毎年100近い四死球を稼いでいた

 

という点です。

当時は絶対的な4番。

 

「俺が決めたる」などといった気持ちもあったとは思いますが、四死球を稼げたのはボールを良く見極め、塁に出ることで勝利を追求したため。

という見方ができるのではないかと思います。

 

ちなみに、西武に在籍した11年間で、最多四球に輝いたのは4度

 

打撃3タイトルとは無縁でしたが、「目に見えない」部分での輝きは清原がいかに己を捨て、チームの規律に従ってプレーしていたからこそ、この結果につながったといえるでしょう。

 

歯車が狂いはじめた、巨人移籍

甲子園最多本塁打、最年少での200本塁打を達成した清原。

そんな彼の歯車が狂い始めた序章は巨人への移籍だったのかもしれません。

 

それまで2割7〜8分前後で推移していた打率が、巨人へ移籍する2年ほど前から2割5分前後へと低下しはじめただけでなく、三振数も増加するなどやや陰りが見えはじめた彼の打撃。

(それでも、本塁打数は毎年25本以上打っていました…スゴイ)

 

それでも、ドラフトでフラれ、10年越しの恋を実らせ、やってきた新天地•巨人。

ファンからももの凄い期待を背負い、移籍した巨人。

 

期待はずれのような扱われ方をされ、ものすごい批判を浴びることとなりましたが、果たして実際のところどうだったのか成績から見て行きたいと思います。

 

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三振は152と非常に増えた(これが印象の悪さを増幅させたのかもしれません)ものの、その他の成績はほぼ、いや全くと言っていいほど変わっていないのです。

 

当時は打撃の3タイトル(打率•本塁打数•打点)、チャンスで打つか打たないかという感覚的な尺度のみで評価されると言ってもいい時代。

OPSという考え方や、セイバーメトリクス的な高度な分析が日本の野球界に浸透する前でしたから

 

「なんだ、打たねーなこいつ」

 

という評価へとつながってしまったのは、非常に不運なような気がします。

もし、今の時代に移籍していれば…。

 

きっと勝利への貢献度など、様々な尺度から彼の活躍が評価されるようになり、今回のようにクスリに手を染めるような悲劇も起こっていなかったかも知れません。

(それとこれとは別の話かもしれませんが)

 

全ては、周囲の高い理想に応えられない「焦り」だったのではないか

移籍3年目の1999年。

手首の亀裂骨折、膝の靭帯の負傷(断裂していたともいわれています)によって、入団1年目から続いていたシーズン20本塁打が途切れた清原。

 

まさに「背水の陣」となったこの年のオフ、自分自身の身体に大改革を施します。そう

 

肉 体 改 造

 

です。これが後々の彼の成績を落とすことにつながった、という見方もありますが、私自信は肉体改造よりも

 

膝の完治を優先できなかった焦り

 

にあるのではないかと見ています。

身体を大きくしたことにより、巨人移籍直後と比べて長打率が向上。

特に、本塁打率は年間フルに打席に立てば40本は打てるレベルのものでした。

 

一方で、膝の負傷以後、規定打席に達することができたのは2001年のみ。

ここには、膝を治すことができなかったことが大きく影響していたのではないでしょうか。

 

ケガがちになってしまったことによる焦り。

毎年のようにやってくる清原の後釜。

 

FAによる補強全盛期だった巨人のなかで、活躍しなければならない重圧。

その焦りが、清原自身の歯車を狂わせてしまった気がしてなりません。

 

もっとも、彼自身は人間関係のいざこざはあったことは認めているものの、移籍を後悔していないようですが…

 

いつの日か、戻って来れるのか?

通算500本塁打2000本安打を達成した清原。

現役時代の黒い噂など、何もなければ指導者への道に進めたことは間違いないでしょう。

 

ただでさえ厳しかった指導者への道。

今回、逮捕されてしまったために、この道もほぼ完全に閉ざされてしまった。

 

ですが、江夏豊のようにテレビなどでは時折見ることができるのかもしれません。

汚れきってしまった、かつてのスター

 

いつの日か、こんな形で

 

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あぁ、清原よ。我々が見たいのは、薬に溺れる姿ではなく、まだ16歳の頃、甲子園を「清原のためにあるのか」と言わしめたあの夏の輝き。

 

黄金期の西武に入団し、強い西武の主軸を担った20代の頃。

しなやかな身体から繰り出される、美しい放物線で魅了する清原

 

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盟友・佐々木主浩引退試合で、わがことのように悲しみ、涙する姿

 

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 「最後の花道を用意した」と今は亡き仰木監督に請われ、やってきた大阪の地。

引退の試合で、夢終えた高校球児のように、涙を見せる姿

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「帰って来たで」

 

と戻って来てくれることを信じて…